ここんとこ3日か4日くらいずっと泣きよるような気がする。別に嫌な事とか悲しい事があったわけじゃない。自分に苛立って怒りをぶつけよった。こうやって泣くのは本当に久しぶり。感情の起伏が人より乏しくてあまり泣けんのんだ。じゃけ自分でも驚いとる。同時に「人間らしいな」って気持ちに浸ってます。泣くことは恥ずかしい事でも悪い事でもないからね。前向きに、生きていく為に泣いとるだけやから。自分を軽視し諦めて、自身を粗末に扱ってたらいつか本当に泣けんくなるよ。泣ける時は泣いとった方がいい。じゃなきゃ泣き方を忘れてしまうからね。泣くからって「弱い」と思うなよ泣かないからって「強い」と思うなよ
龍さん
ただ想ったこと。龍の戯言
他人ってすごく無責任なんですよね。本当に無責任過ぎて笑いが出るくらい。自分が言ったことについて絶対に責任をとってはくれない。その責任を負うのは全て自分自身なんです。どんな選択をしようが結局は自分が責任をとらないといけないのが社会。人からアドバイスを受けるときも要注意です。自分の人生ではないんだから、アドバイスする側も大した責任を持ってアドバイスしているわけではないから。その内容が素晴らしいものだとしても自分には合っていないかもしれない。その人の言葉に流されてしまっていいのか一度立ち止まって考えてみて。有意義なアドバイスを受けたいときはいろんな意見を聞くようにするのが有効。特定の誰かからだと、その意見に引っ張られることになるから。でも、誰にアドバイスしてもらってもどれだけたくさんの人の意見を聞いたとしても最終的に決めるのは自分。時には無茶苦茶な選択肢もあるとは思う。頑張って入った会社をやめて俳優になりたい。当然、周りは止めるはずです。でもやってみなきゃ分かりませんからね。どうせ失敗するなら自分でちゃんと決めてからの方がいい。自分で経験しないと分からないことって沢山あるから。他人に「向いてない」 「無理だ」と言われたくらいで納得できるのなら、大した情熱もなかったってことじゃないんかな。どうせ、自分の責任は自分でとらなきゃいけないんだ。それなら、やりたいと思ったことは...
人間関係が変わる時というのはそれまで自分の周りにいた人たちが離れていく時でもあります。それはもうどうしようもないことで仕方ないことだったりする。変えたくない関係もある。離れていってほしくない人もいる。でも、ずっとそれにしがみついていたらいつまで経っても変わることも成長することもできない。自分らしさと引き換えに得た自分の居場所なんて窮屈なだけ。もうそこは自分にとって最適な場所ではないんだから。だけど、変わったからと言って全ての人が離れるというわけではない。今までと変わらず傍にいて、見守ってくれている人もいる。そういう人って、自分の変わらないところをちゃんと見てくれているんですよ。変わり続けても、中学生ぐらいのころからずっと変わらない部分って絶対にあるから。変わったことによって新しい出会いがあるでしょう。そんな人たちと一緒に、以前と変わらず見守ってくれる人。こういう人たちの関係の中に自分らしい居場所があるんじゃないのかな。大切にすべきは、変わったことによって離れていった人たちではないんだよ。昔いた場所に固執する必要はない。新しい自分には必ず最適な場所があるから。そんな自分を愛してくれる人とも必ず出会える。変わることを恐れずに。それを怖がっていたら、いつまで経っても自分を更新することはできませんよ。今のあなたはどんどん古くなっていってそのうち風化してしまうだけでしょうね。
今日改めて、人の優しさと温もりに触れた。あるTwitterのフォロワーさんが自分の為にしんどい中、時間を割いてくれました。申し訳ない という気持ちに潰されそうになりましたが「ありがとう」を沢山伝えたいと思いました。彼にも今日突発的になんやらようわからんLINEを送ってしまった。たまにあるんですよね。「ごめんね」って気持ちが押し寄せてくる事が。同時に「ありがとう」って気持ちも。なんだか無性に伝えたいなと思い連絡入れました。私の彼はしっかりしている人でとにかくいいパートナーです。しっかりし過ぎて、いつの間にか寄り掛かってる事が多々あります。なので少し後ろを歩いて背中を追ってる事があるんですが彼は立ち止まり振り返ってくれるので気付けば横に並んでます。敵わんよ、まったく。人から与えられたものは特別です。明日もいい日になりますように…
誰かの陰口や「嫌い」という感情に乗っかりたくない。『人を嫌ってはいけないよ』というぬるい道徳心がブレーキを掛けているわけじゃない『人の悪口なんて言ったら自分の価値が落ちてしまう』という美意識がブレーキを掛けているわけでもないもっと根本的な違和感が拒絶しているような感じわざわざ誰かの「嫌い」に乗っかりその人を嫌いになるのは嫌だ。例え嫌いになっても、私とあなたの「嫌い」は違う。自分は自分で勝手に嫌っていたい、みたいな謎の独立心『人を嫌うことはいけないことなんだよ』と教えられて育ってきたような気がする律儀にそれを守ってきた頃もあったかもしれないでも窮屈、すごい窮屈違う人間同士が同じ環境に居れば相性の良し悪しは必然と生じる誰かを好きになることが止められないように誰かを嫌いになることもまた止められない嫌いになればなるほど、嫌悪感も増していくし被害者意識に苛まれやすくなると思う。自分の正当性を証明したい。私は悪くないんだということをみんなに知ってもらいたい。こんな理由があるのよ。私はあいつにこんな事されたんだよ。実はこんな事を言われたの。酷く傷付いているんだよ。からの『ねぇ、ちょっと聞いてよ』という陰口への流れ。時に弁明弁解が陰口悪口になっている。目には見えない啀み合いで溢れかえってる中『べつに人を嫌ってもいいんだよ』という言葉を聞いて救われたことがある。一気に自由になった、人との距離感に...
昨日、今日とずっと泣き続けとった。久しぶりに泣いた。「泣きそう」と言いながらも泣けんかったけおかげで、頭痛いし目と目の周りが赤いし腫れとる夜の12時くらいから、朝の6時までずっと泣きよった。別に悲しい事があったわけじゃない。ただ自分に怒りをぶつけよった。Twitterのフォロワーさんや沢山の人から温かい言葉を貰って今日もこうやって生きています。生かされています。本当にいつもありがとう。もう少しで、自分の大事な人の命日。あ、そのせいで涙脆くなってるんかもしれん。今は泣ける時に泣くことにする。あまり泣けんのんだ、自分の事で。自分自身を諦めてしまったから。今は立ち直れとるけど、泣くのが少し難しくなりました。泣きたい時は泣いてた方が良いよ。泣き方、忘れてしまうからね…
多くの人に愛されるのは素敵な事だけど全員に愛されるのは難しい。正しい選択なんてわからない。多くの人が認めてくれたら安心するだろうけど自分自身が認めなければ後悔はずっとずっと残るだろう。自分の選択、自分の気持ちに自信を持つように。失ったものに納得し、得たものに自信を持つ事。
この世の中、絶望したくなるようなことは沢山ある。見たくない物を見て、聞きたくもない言葉を聞いてその度にしにたいと思った事も沢山。自分にこの目や耳が付いていなければどんなに良いだろうかって思ったこともある。でも、泣きたくなるくらい綺麗なものや温もりだってこの世には沢山あった。
要らない人間関係を切り捨て、身軽になるためにどの人間関係を大事にしてどの人間関係を切り捨てるのかそれを取捨選択するためには『人に優しくすること』だと思った。その人の立場を立ててあげその人の過ちは許してあげその人には何も望まずその人の好きなように振舞ってもらう大事にすべき人には、その優しさには甘えなかった。その人の立場を立ててやると謙虚になってくれてその人の過ちを許せばちゃんと反省してくれて誠意に対して誠意で応えてくれた。今後も人間関係を続けていくべき存在かな。人の優しさに甘えてしまう人はその人の立場を立ててあげるとたちまち天狗になるしその人の過ちを許せば免罪されたと思いクズになる人の優しさをただ鵜呑みにして甘えてしまう人は『ただ愛されたいだけの人』が多かったそういう人は切り捨てていく非情な私『非情』だとよく言われるけどそんな自分で良かった、なんて思う時がある優しさは人を測るものさしでもある。だから優しい人はいい人じゃないんだよ。むしろ非情にならなければ人に優しくなんて出来ないや。
ネガティブな感情に綺麗な言葉を飾り付けただけの安っぽい言葉が嫌い。虫唾が走る。あれほど無責任な言葉はない。そのままでいいって言葉が沁みた時は変わらなきゃいけない時『そのままでいいんだよ』って…いいわけがないそれを理解している人は正直少ないと思う。その言及もないままネガティブを肯定する、共感だけ誘い解決に至らないただの慰め、無力な言葉は残酷なまでに無責任だ力のある言葉は人を動かす事ができる言葉だ行動へ導いてくれるもの、それが言葉、美しい言葉だと私は思うそれはときに毒を盛らなければならない用法用量を守って使用する。『良薬口に苦し』ってやつだ決して甘くはない言葉、それが効く言葉共感はするけど同情はしない。同情なんかしたら相手に失礼だ同情しないのは最低限の礼儀、それが敬意厳しいわけじゃない。それが優しさだったりするんだよ。しかし甘いだけで毒にも薬にもならない言葉を欲しがる人も少なくない『そのままでいい』『何も変わらなくていい』そんな言葉だけを求める人、それを無責任に提供する人正直、居た堪れない。それじゃいつか、自分という存在を諦めてしまうことになってしまう。自分の事で泣くこともできなくなってしまう。ネガティブな感情に綺麗な言葉を飾り付けただけの言葉なんてどうでもいい人にしか差し出せない言葉どうか甘いだけの言葉に騙されないでほしいどうか力のある言葉に耳を傾けてほしい
ふと、過去の出来事を思い出し「あの日、あの時に時計の針を戻せたら」と、考えてしまうことが多々ある。けれど巻き戻すべき時計の針はひとつではなく数え切れないほど存在するだろうな。愚痴ってはみるものの、戻れないことは百も承知。どれもその時はそれがいいと思って選んだことだったり他にやりようがなかったことだったりするんだから。
人は生まれてからしばらくは、「先」を見て進む。子供の頃は早く大きくなりたくて十代の頃は将来の夢を描き二十代では人生の目標を定める。未来はどこまでも果てしなく限りなく広がっていた。二十年後、三十年後を夢想した若き日々。けれどいつからか「先」の方が短くなる。ある年齢を越えると、二十年後や三十年後が自分にあるのかどうか、それまで生きているかを考える。それは寂しさであって、悲しさでもあるのかな。だからそれに気付いた時、人は回れ右をするんだと思った。進行方向は変えられないけどせめて「先」の限りが目に入らないように後ろを向くのだと思う。その時、「先」の代わりに目に入るのはこれまで自分が辿ってきた「過去」だ。年を重ねるにつれ、懐かしいと思ったりやたら昔のことを思い出したりするのはそういう理由からなんじゃないのかなと私は思った。